読んだ本とか、漫画とか、映画とか、色々
自分の容姿に自信がもてないミラ、クラスの人気者カオリ、「わたし」というしがらみに悩む秋穂、そして誰とも交わろうとしないシズ。同じ高校の写真部に所属する4人は、性格も、好きなカメラも違うけれど、それぞれのコンプレックスと戦っていた。カメラを構えると忘れられる悩み。しかし、ファインダーを覗く先に不可解な謎が広がっていて……。(帯より)
女子高生とカメラ部とミステリ、と聞いて飛びつきました。ミステリ成分よりも、悩める女子の割合の方が大きかったですが、女子高生の痛々しい「自分」と「他者」という学校社会の話で、刺さる感じがとてもよかったです。
カメラという、解放の手段を持っているせいで、四人は思ったよりものびのびとしているけれど、ふとした時、周囲と自分を比べてしまって卑屈になったり腹が立ったり悲しくなったり、痛い思いをするところがいい。表現の手段を持っている者ならではの、ちょっとした傲慢が出る「コンプレックス・フィルタ」や、たった一つ好きなものを見出してしまった者の「ペンタプリズム・コントラスト」。作り手として共感できる書き込みは薄いかもしれないけれど、ちょっとした謎の部分があったりするところも面白かったです。
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美しい王妃は侍女ツルの言葉によって、しだいに圧政者となり、人の道から外れてゆく。そして現代の小さな街に住む老女との関わりは? 時代はうねる。物語が生まれる。寓意が深まる。「わたしは、人の心にとり憑いて、わたしにとり憑かれるような心を持った人間を滅ぼしてやるの。人間を滅ぼすほど面白いことはないものね。え? 恐ろしいって? わたしのこと?」毒のあるファンタジー!(裏表紙より)
ある国の后と侍女の物語と、現代の老婆の独り語りが交互になされる。一番とっかかりになるであろう現代パートが、独り語りの上に悪にも感じ取れる老婆の視点で、それも犯罪が行われていることが語られるので、得体が知れなくて恐い。
ツル、という存在がキーワードになっており、ツルに関わったものは何らかの悪を唆される。千年生きる、つまりとこしえに存在するものがツル=怨念、そして水と女に繋がる。さらっとした文体なのに物語はどろどろで、ちょっとえぐくて気持ち悪い。後味はよくない作品でしたが、こういうのも書かれるのねーと思いました。
本には短編「崖の上」も収録。森のものに育てられた人間の少年と、学者の娘の物語。これも後味はよくはないけれど、少年と少女の失われたもののきらめきが美しいものでした。
八咫烏が支配する世界山内では次の統治者金烏となる日嗣の御子の座をめぐり、東西南北の四家の大貴族と后候補の姫たちをも巻き込んだ権力争いが繰り広げられていた。賢い兄宮を差し置いて世継ぎの座に就いたうつけの若宮に、強引に朝廷に引っ張り込まれたぼんくら少年雪哉は陰謀、暗殺者のうごめく朝廷を果たして生き延びられるのか……?(カバー折り返しより)
前巻『烏に単は似合わない』の裏側、四家の姫たち后候補たちが桜花宮に集められていた一方で、若宮と彼に関わることになった少年・雪哉たちは何をしていたか、という話。女っ気がないので表紙通り黒っぽい地味な一冊で、若宮といううつけ者が特別で魅力ある人物だということは分かりはしたものの、特に後日談があるわけではなかったのでちょっと消化不良でした。でも、雪哉がなにくそと頑張るところがすごく楽しく、成功物語としての部分が好きだと思いました。
しかし、若宮の喋り方が好きだわー! 「だって、私は金烏だもの」という言い方が、小憎たらしい自信とちょっとの寂しさを感じさせて、きゅんとする。
これ続編出るのかなあ。浜木綿が好きだったので、彼女の物語を見てみたいかも。
人を呪い、だまし、悲しませる魔女とその使い魔魔女ねこに生まれたゴブリーノ。三本黒い足と一本だけ白い足。綺麗な青い目をしたねこだ。妹のスーチカは魔女ねこの才能があるけれど、ゴブリーノはどの魔女も欲しがらない。ある日、母さんねこも魔女もゴブリーノを捨てて去ってしまった。自分の家を探すゴブリーノの物語。
多分読書ガイドか何かを読んでメモっていた本。魔女のねこって可愛いなー児童書かどんなのだろうと思っていた。居場所に恵まれない男の子が、自分の場所を探す冒険物語でした。
冒険物語として、繰り返しの連続になるのですが、どの飼い主に当たっても、最後には魔女ねこというだけで石を持って追われ、嫌われる。居場所が欲しいがために魔法をちらつかせて脅すことがあっても、本当はそんなことしたくないと悲しむゴブリーノ。魔女ねこに本当に向いていない子で、最終的には魔女たちにも魔女ねこには向かないと言われてしまう。それでも、彼は子どもたちにとっても好かれている。
最後には居場所を得たゴブリーノは、失ったものもあるけれど、求めたものを得ることができたので、ちょっとほっとしました。よかったと一概に言えないのは、そのままの自分ではあれなかったというところが引っかかっているからで……。
とにかく、喋る魔法のねこの冒険はとっても可愛らしかったです。
いよいよ始まった〈戦国学園祭〉。泉水子たち執行部は黒子の衣装で裏方に回る。一番の見せ場である八王子城攻めに見立てた合戦ゲーム中、高柳たちが仕掛けた罠に自分がはまってしまったことに気づいた泉水子は、怒りが抑えられなくなる。それは、もう誰にも止めることは出来ない事態となって……。
ついに動き出した泉水子の運命、それは人類のどんな未来へ繋がっているのか!?(カバー折り返しより)
アニメの最後の部分に当たる、戦国学園祭の当日と終わり。真響、真夏、真澄の三つ子の関係性がより複雑であることが読み取れる原作。アニメでは結構唐突に思えた真響から深行への申し出も、前の巻からの流れを含めるとより自然で、やっぱりアニメは話数が足りなかった(でもうまくまとめたなあ……)という気がします。この五巻の重要なシーンは、アニメだからこそ響く声や音楽や美術背景などがあって、私はアニメの最終話がものすごい好きなのだ。ぼろぼろの綺麗な涙を流す女の子はいいものです。
深行がやっと頑ななところを解いて、「必要だって言えよ」ときた! しかし自発的なんじゃなく、真響の泉水子が深行の迷惑になるから付き合えないと言っていたと聞いたからだとするなら、本当に荻原作品のヒーローからとことん外れた現代っ子だなあと苦笑しました。最初からしっかりしていて器用なせいなのかな。ぼーっとしていたり若干不器用だったりする男の子に、主人公の女の子が手を引いてやるのが荻原作品には多い気がするので、だから正反対な二人は最初は噛み合ってくれなかったのか。
姫神がしばらく静かになっている分、泉水子の迷いや行動が物語の重要な部分にダイレクトに響いてしまい、ラストでは明確な未来の一手がさされたところで、幕。これで全六巻は、ちょっと短かったという気がしますが、最終巻を楽しみに読んでいきたいと思います。
荻原作品で出てくる「一生」とか「永遠」の言葉の重さって、すごいなと思う。荻原さんの書く一生ないは一生ないし、永遠に分からないことは分からない。
夏休みも終わり学園に戻った泉水子は、正門でふと違和感を覚えるが、生徒会執行部として学園祭の準備に追われ、すぐに忘れてしまう。今年のテーマは〈戦国学園祭〉。衣装の着付け講習会で急遽、モデルを務めることになった泉水子に対し、姫神の出現を恐れる深行。果たして会終了後、制服に着替えた泉水子はやはり本人ではなく……。大人気シリーズ! 物語はいよいよ佳境へ。姫神の口から語られる驚くべき事実とは……!(カバー折り返しより)
泉水子の日記から始まる第四巻。夏休みが終わった後、学園祭に向けて、会議をしたり下見をしたり学生らしいことをしている泉水子たちは、アニメにはそれほど描かれていなかったところかなと思います。いろんな生徒がいることが分かるのが、原作は楽しい。しかしさりげなくオタクへのネタがばらまかれているのはなんでなんだ。泉水子は夏の大祭の知識なんてないはずなのに笑
深行との仲は相変わらず進まない。じれじれというより、本当に仲良くなるのかという不安ばっかりになってくる。どちらも気にし合っているのに、未来への不安が停滞させるんだろうか。
姫神とのデートは楽しい。姫神のただではいかない性格や言動が好きです。一度は世界遺産になったことがあるというのが、また辛い……。途方もない時間を生きるとああいうものになるんだろう。「決められた未来が白く途切れた」なら、姫神は見失うものがあるのかなと思うとその辺りも切ない。
「わたし、もともとそんなに自信のある人間じゃないんです。(中略)コンプレックスのかたまりの中で、わたしは本当につまらない人間なんだとずっと思い続けていたんです。でも、『あ、それでもわたしは書くことが好き』みたいに、書くのが好きという、たったひとつのことはあったんですね」——本文より
本書では、あさのあつこさんと中学生が出会い、語り合い、手紙を交感し、そして、あさのさんは、自分の中学時代を振り返りました。
大人になってもチュウガクセイのキモチを忘れたくない。そんなあさのさんからのメッセージに満ちた一冊です。(カバー折り返しより)
新潟中越地震で『バッテリー』を読んでいるという中学生との往復書簡。俳優・神木隆之介さんとの対談。六人の中学生男女との対談。中学生たちの質問に答える章。そして、あさのさんが高校二年生の時に書いた短編小説「マグナード氏の妻」巻末付録。
2008年の本ですが、中学生の悩みってそうそう変わらないなあ……。けれど、この本で話している中学生たちはずいぶんしっかりした物の考え方をしている。いじめのたいしても、アクションを起こしたいという気持ちがあるのは強くないとできない。
子どもの世界が狭いなんて、大人の決めつけだ、学校以外にもお風呂で、電話で、ノートその他色々なところに世界がある、というあさのさんにその通りだなあと反省しました。子どもの世界、確かに狭いんだけれど、一口に狭いんじゃなくて、思ったよりもたくさんあるよな、と。
学園祭の企画準備で、夏休みに鈴原泉水子たち生徒会執行部は、宗田真響の地元・長野県戸隠で合宿をすることになる。初めての経験に胸弾ませる泉水子だったが、合宿では真響の生徒会への思惑がさまざまな悶着を引き起こす。そこへ、真響の弟真夏の愛馬が危篤だという報せが……。それは、大きな災厄を引き起こす前触れだった!(カバー折り返しより)
アニメを見てから読む三巻。SMFやおじいちゃん周りの話があって、戸隠の派閥が感じ取れるようになっていると思いました。こうしてみると、泉水子も深行もどっちつかずでみんな落ち着かないんだろうなあと思う。主人公たちが道を決めないとなかなか方向が決まらないので、「普通になりたい」という願いは難しいことなんだと感じます。
このシリーズで感じることだったんですが、「RDG」って、結構神霊やその他特殊能力に関することをすべて説明し切らずに進めるよなーと。明確にすると雰囲気が壊れたり読者の考え方が破綻してしまうからなんだろうか。きっちり考えてあるのに、こういうものなんだと臭わせる程度にしてあるのが面白いな! 真響、真夏、真澄の関係性が特にそう思う。
『天地明察』の頃から数年間の対談集。対談相手は、かわぐちかいじ、富野由悠季、井上雄彦、養老孟司、夢枕獏、伊坂幸太郎、天野喜孝、鈴木一義、中野美奈子、滝田洋二郎、山本淳子(敬称略)
『天地明察』が本屋大賞、映画化の流れでばーん! となっている時のものなので、何故渋川春海を選んだのかという話や、SFではなく時代小説を書いたのか、ライトノベルから一般文芸に行ったのかという話がしょっちゅう出てくる印象でした。『天地明察』の頃からの人はその辺の話はあんまり知らないのかもなー。冲方さんのインタビューや対談やブログは面白くて結構読んでいるので知ってるよ! という話題も多かった。
しかし、やっぱり各分野の第一線で活躍している先達の方たちとの、これからの創りものとは、という話はすごく面白かったなあ! 富野由悠季さん、天野喜孝さんの話は特に面白かった。富野由悠季さんとの対談でリアリズムと日本現代社会について話をされているんだけれど、リアリズムでものを考える、という感覚はあんまり分からないとしても、ここがすごくうっとなったところ。
富野 (略)「踊る大捜査線」の本広克行監督に、今の多くのクリエイターは自分でモノを生み出せない、おもしろいモノをいろんなところから引っ張ってきて、それをどう上手に並べるか、つまりサンプリングが今のモノづくりなんだって説明されて驚いたんだけど、それって当たり前の感覚なの?
冲方 そういう考え方もあるとは思いますが、自分の能力で全部つくるよりもサンプリングしたほうが観客に届いてしまうという悔しさも入っているんじゃないでしょうか。
これも一種の活動なんだけれど、どれほどリアリティのあるものが、リアリズムとして人の生活に取り入れられるかという点で考えると、ライトノベルが消費だと言われる感覚はなんとなく分かる気がする。みんながモノを作れる時代というのは、こういうことなんじゃないかなあ。